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大学受験の準備は難しくない? 〜受験生の皆様へ〜


             福本 2015年9月23日作成  2016年1月更新

 大学入学試験など、はるか昔のできごとでもあり、振り返りたくなる楽しいイベントで
もありません。ただ、受験を見据え始めた高2の時期に、先後に例のない経験をしており
ます。共通一次試験も無く、A群、B群の振り分けもない頃の経験ですが、現在の高校生
の皆様にも、役に立つのではないか、と思われましたので、お伝えすることと致しました。

1.例のない(?)経験

 例のない経験とは、私どもの公立普通科高校(長崎県立佐世保北高等学校)で、出題範
囲が狭く限られた通常の定期試験とは別に、2箇月に一度行われていた大学入試模擬試験
(「実力試験」と呼ばれていました)で、同一学年600人中270番から16番へ、一
回で飛躍したという経験です(このときは間隔が通常よりも空いていて、4箇月ほど有り
ました)。270番とは、全国のどこの大学も合格は難しい、というレベル、16番とは、
九州ではあこがれの的、九州大学に確実に入学できるレベルでした。今なら、「偏差値」
という尺度で測ることができるのでしょうが、当時は未だ通用しておらず、同校の過去実
績に基づいて「学年順位」が大学合否の指標とされていたのです。

 定期試験は、2箇月毎に行われ、その期間に習得した範囲で出題がなされ、その結果は、
いわゆる「学業通知表」に学業成績として記録され、科目毎にある水準に満たなければ、
「赤点」(不合格点)とされ、一定以上の「赤点」があれば、「学年落第」の対象ともさ
れる、本来重要なものではありました。しかし、出題範囲が限られていますので、相応の
結果を得ることは、さほど難しいものではありません。
 
 高校2学年へ上がって、クラブ活動も止めて、大学入学のことを考え始めてからは、定
期試験については、満足できる結果を得ることができるようになりました。日頃の予習復
習をきちんとやって、授業ではノートをきちんと取って、試験期間にはノートに沿ってマ
ジメに準備をすれば、達成できるものです。多くの場合、格別の参考書も無用でした。

 ところが、高校入学以降の全範囲を対象として、出題の難易度も大学入試を模擬して行
われる「実力試験」は、それとは勝手が全く違っておりました。定期試験ではなく「実力
試験」の結果が、大学の合否に直接につながることから、学校でも生徒の間でも、「実力
試験」の結果を重視していました。学校は、実力試験の度に、学年毎に上位百人ほどの氏
名を順位とともに白い大きな紙に墨書きして、生徒がよく集まる校内の購買部の横の壁に
貼り出していました。

 高校入学以来、名前が記載されたことはなく、しかも、実力試験の結果は、なぜか後退
の一路を辿っていて、第2学年に上がって、定期試験では一応の結果を得るようになって
も、後退傾向に変わりはありませんでした。そして、第2学年の9月に行われた「実力試
験」では、何と、自己最低の270番にまで落ち込んでしまいました。

 日頃の学習をきちんとやって、定期試験の結果を向上させることができれば、やがて
「実力」も向上するだろうという、それまでの考えが通用しないことに気づかざるを得ま
せんでした。これまでの学習の仕方、実力試験に向かうときの姿勢など、を自身で分析す
るほかありません。その結果、全範囲出題形式に慣れていないこと、試験の場面で1題で
も多く回答を導くことだけに集中するという姿勢に欠けていたこと、に問題があって、実
力試験のためには独自の学習法が別途に必要である、という、ほぼ確信に近い結論を導く
ことができました。そして、これに対処するために、自身で模擬試験を数日に1度の頻度
で実施する、という処方箋を引出し、試みることに致しました。

 先ず、数学について先行して実施致しました。試験と同じ状況を模するために、問題集
から既に習っている範囲内で、4問を好き嫌いなく、問題を見ることなく番号のみでラン
ダムに選び、ノート見開き2ページに写し書きすることにしました。4問の配点は、難易
度に応じて適当に決めて、記入しておきます。(続けてゆくうちに、問題の写し書きにつ
いては無用で、問題番号の記入のみで足りることに、気がつきました。)問題集には、
「数研出版社」から出版されていた、最新年度の全国大学入学試験問題集(少し横に広い
新書本くらいのサイズで薄いものでした)が最適でした。

 準備が整うと、60分の時間を決めて、問題に取り組みます。頭の中にある、あらゆる
知識を使って、1問でも多く正答することにのみ注力します。60分が経過すると、解答
途中であっても手を止め、問題の解答と照らし合わせて採点します。部分点などは配分せ
ず、結果が合っているか否かのみで、厳しく採点します。準備から採点終了まで、90分
を要しました。この種の学習スタイルを、「実力養成」と称して、毎週3度の頻度で実施
を続けました。

 実施当初は、20〜30点という低いレベルで、なるほど、「実力試験」の結果が悪い
はずだ、と納得できるほどでした。2週間、3週間と続けてゆく内に、50点を超えるこ
とが多くなり、ときには70点レベルも出るようになりました。

 実施開始から1箇月を経た11月頃に、数学のみの実力試験が実施されました。ある日
の休憩時間、級友が私の席に来て、しばらくは何も言わずに立っていて、その後に、「凄
かねえ」と言うのです。何が?と訊きますと、何や、知らんとや?、順番が張り出されと
る、行ってみんや、という。先日の結果について、いつものように上位百番くらいまで氏
名が発表されていました。何と、9番目に名前が記されていました。自作の「実力養成」
では、まだ70点台が良い方で、まだまだ時間を要する、と思っていたところ、校内模試
では、この通り予想以上の結果でした。自己分析と処方箋が正しかったことを確認した瞬
間でもありました。

 その後間もなく、同学年の全生徒を講堂に集めて、数学の先生(荒巻先生)の講演会が
催されました。講演の中で、定期試験では成績が良くても、実力試験で成績がなかなか伸
びないという人は、自分で問題を4問くらい拾って、ノートに書き写して、模擬試験をや
るとよい、というお話がありました。自分で処方した方法と、全く同じ内容が述べられた
のです。

 これには驚きました。ユニークなやり方を人に話すのは恥ずかしい、という思いがあっ
て、自分から話すことはありませんでした。授業中にノートを先生に見られたのだろうか、
とも思いました。おそらくは、以前からこのような方法は知られていて、自分が知らなか
っただけなのだろう、と納得致しました。知らなくても、真剣に処方を考えれば、同じ結
論に達することが可能、ということを学ぶ機会となりました。ただ、仮に先にお話を聞い
ていたとしても、同じことをやっただろうか、自身で納得して見つけ出した処方だからこ
そ、真剣に実行することができたのではないだろうか、とも思いました。事実、その後に
成績が急転上昇したというほかの人の話は、少なくとも耳に入ることはありませんでした。

 やがて、冬休み前の短縮授業の週間が近づきました。長い休暇の前後1週間ずつは、授
業数が少なく、午後の早い時期に下校することができるようになっていました。早期下校
の分を入れると、冬休みは実質3週間分の時間となります。そこで、3週間分の計画を立
てることと致しました。大学入試の試験科目(実力試験の科目と同じ)について、当初か
らの総復習を行うこととし、その進行に応じて問題練習を適宜入れ、さらに、「実力養成」
を数学から他の科目にまで拡げて、毎日1回行うことと致しました。

 総復習はノートについて、問題練習については問題集について、どの時間にどの範囲を
行うか、を最初にすべて決めてしまいます。「実力養成」については、どの時間にどの科
目をするか、を決めておきます。ノート3〜4枚を使って計画表として明記します。計画
作成に2日を要しました。一旦詳細に決めてしまえば、後は、何をすべきかを考えること
なく、ただ、計画通り実行すれば良いのですから、それだけの時間を費やす値打がある、
と判断致しました。

 数学の「実力養成」を試行する中で、発見したことがあります。それは、90分を要する
このタイプの学習の方が、集中の度合いが高い、ということでした。それまで、学習時間
は、学校の授業のスタイルに合わせて、60分単位とし、間に10分の休憩を入れており
ました。この細切れの時間よりも、90分単位の方がより集中できることに、気がついた
のです。

 そこで、計画では、それまでの60分単位を止め、90分単位に切り換え、間に15分
の休みを入れることとしました。午前3単位、午後2単位、夜3単位の配分であったかと
記憶します。特殊なスタイルで、格別に集中力を要する「実力養成」については、毎日同
じ時間帯に配分しました。規則正しい方が、楽であろうと思われました。

 計画は十分に余裕を持って定めましたので、実際に実行すると、計画よりも早く予定を
完了することが多く、午後には何時間もの休みの時間ができました。正月2日の「二日買
い」(毎年恒例の地元商店街の大安売り)に、バスに乗って出てぶらつく時間もありまし
た。商品に不具合があって、別の日に同品交換のために出る時間もありました。計画は綿
密なのですが、気持には余裕のある冬休みとなりました。

 一日一日と計画を実行するうちに、正しい方向に進んでいる、という確信を、誇張では
なく実感するようになりました。計画どおりに実行でき、頭の中に各科目の内容が再整理
できました。毎日一回の「実力養成」の結果も、その頃には相当に向上しておりました。
「実力養成」により、全範囲からランダムに選んだ問題に取り組むことを通じて、理解その
ものが深まってゆくことも実感できるようになりました。「ひょっとしたら、何かが起き
るかもしれない」という予感が、時折よぎりました。

 冬休み明けに、4箇月ぶりに大学入試全科目の「実力試験」が実施されました。しばら
く後に、前回と同様に、結果発表を級友が知らせてくれました。見ると、16番目に名前
がありました。予感は的中し、前回の270番から九大合格圏へ、一気に飛躍致しました。

 職員室へ来るよう、担任の先生(岩永先生)から呼び出しがありました。前に立つと、
試験結果の記録を手にしながら、しばらくは無言で、その後静かな声で、「この成績をど
こまで自分のものとして信じることができるか?」と問われました。「はあ..」としか
答えようがありませんでした。数学はF(数学が最も良くできる生徒として知られていま
した)と同じ98点で学年1位、物理は満点、ほかも全て前回から大きく伸びている、と
のことでした。

 その2箇月後の「実力試験」では、25番へ少しながら揺り戻しがありました。その原
因を再度分析し、「実力養成」に向かうときの態度が、当初と異なってきていることに気
がつき、これを正すこととしました。春休みを経て第3学年へ上がったときには、13番
へ回復し、その後は大きな飛躍はなく、少しずつ前進して、入試直前の最後の実力試験で
は5番で卒業することになりました。10番以内は京大合格圏、5番以内は東大合格圏と
言われていました。

 日頃の地道な予習・復習、それと同時進行して行う問題練習、という通常の学習だけで
なく、それとは別個に、入学試験形式の全範囲の問題練習を適宜行う、という処方は、自
身が驚くほどの飛躍をもたらし、しかも、理解そのものも一層深まる方法であり、正しい
学習法であったと言えるだろうと思います。ただし、一度の飛躍の後、さらに飛躍するに
は、再度分析を行い、さらに新たな処方を見つける必要があったのだろう、と思います。
これを怠ったことが、第3学年の1年間で、13番から5番まで、わずかな前進に止まっ
た原因ではないか、と考えております。

 第3学年の秋も深まった頃、志望校について担任の先生(松尾先生)との面談がありま
した。京大の原子核工学、阪大の原子力工学を、予め志望校として記入して提出しており
ました。阪大原子力工学は100パーセント合格、京大原子核工学は80パーセント合格、
と言われました。京大理学部なら確率はほんの少し高くなる、京大電気工学なら100パ
ーセント合格とも言われました。京大電気工学にする気はないか、とも訊かれました。電
気工学に行く気はない、と答えました。

 願書は、京大の原子核工学、阪大の原子力工学の双方を提出し、試験日直前に確実安全
な阪大原子力工学に決めました。80パーセントをどう見るか、5回受ければ4回は合格、
1回は不合格。どちらを重く見るか、は人生観に拘わるところであろうと思われます。多
くの人は、4回合格に賭けるのかもしれません。

 大学入学後のだいぶん後になって、入試の成績を知る機会がありました。工学部750
人中50番台で、原子力工学では30人中、1番ではありませんが最上に近い得点でした。
な〜んだ、100パーセント合格とは、こういうことだったのか、と後から知った次第で
す。まず落ちようのない高位合格、ということです。しかし、自分よりも好成績だった人
が、同じ学科にいた訳ですし、悔いるべき理由はありません。

2.基本が大事

 大学入試の準備のために、格別に難しい問題の解法を習得するための取り組みは、必要
無いのではないか、というのが感想です。基本がきちんと理解できたならば、頭の中にあ
る理解した内容のみを頼りに、何も見ることなく問題に取り組むことで、理解も深まり応
用力も備わってくる、というのが経験でした。

 定期試験の結果も満足ではなかった1学年時に習得した内容、特に「数I」(高1の数
学)には、不足があるのではないか、基礎が弱いままなのではないか、という思いが、第
3学年に上がった後にも不安として残っておりました。これを解消するために、1学期の
中頃から、自身で補修の時間を設けて、1学年の内容の「自学再履修」を行うことにしま
した。

 テキストには、数研出版社の「基礎からのチャート式数学I」(緑色の表紙)が最適と
思われました。学校の休憩時間を使って、文字通り表紙から裏表紙まで(cover to cover)
使いこなしました。新たな一節に入る度に、要点をノートにまとめ、その後に、要点を見
ることなく、その節の全ての問題に取り組みます。毎日の最初には、直近の過去数節分と、
それ以前の過去からランダムに選んだ数節分について、要点のみを簡単に復習し、記憶が
薄れていないことの確認と記憶の定着を図ります。

 自身で解けなかった問題が、1問あったことを記憶しております。後の方の幾何学の節
にあって、基本的なデザルグの定理をうまく使った出題でした。全体に難問はなく、良質
な問題が精選されている、という印象でした。約半年を経て2学期の中頃に全内容を終了
したときには、数冊のノートが出来上がっておりました。1学年時に習得した内容に漏れ
が無かったことも確認でき、数Iの基本知識は尽くしている、と確信することができまし
た。進行に並行して要点復習を行っておりましたので、終了後は、作成したノートを再度
手に取る必要もありませんでした。

 なお、「姉妹本」として、赤色表紙の「チャート式数学I」という、歴史のある書も出
版されていました。こちらは難解な問題が多く、問題解法に重点を置いた内容となってい
ました。このような書は、大学入試の準備には必要ない、というのが感想です。

 「緑表紙」を机の上に置いているのを見て、驚く級友もありました。これが最適という
確信がありましたので、周囲の目が気になることはありませんでした。「赤表紙」を使っ
ている人に、数学の得意な人はいない、というのが正直な心象でもありました。

 以上は、過去の習得内容に不足があった場合でも、自身の力で基礎を作り上げることは
可能である、という一つの参考実例となり得るのではないか、と思います。結局のところ
余り必要性がなかった数Iよりも、むしろ他の幾つかの科目に、同様の試みを行っていた
ならば、第3学年にも新たな飛躍があったのではないか、とは、後になって思うところで
す。このことに思い至るほどの、真剣な分析が無かったことが原因であろう、と考えてお
ります。

3.黒板書きする先生は良い先生(高校は大学とは異なる)

 第2学年から第3学年に上がったときに、驚いたことがあります。それは、日本史の先
生(松本先生)が、実に丁寧に黒板書きをされる、ということでした。第2学年に始まっ
た日本史の科目は、最初の1年間にわたって、若い別の先生が担当されていました。教壇
に手を着いて講話を続けられることが多く、黒板に重要事項を記載するということが、余
り多くはないという授業形態でした。ノートだけを見ても記載事項が少なく、脈絡が明瞭
でないために、復習では分厚い参考書を入手して補充することを要しました。日本史の科
目とは、そういうものなのであろう、と当たり前のこととして受け止めておりました。

 しかし、3学年に上がって交代された先生では、授業の形態が全く異なっていました。
まず、講話の内容自体がよく整理されていて、そのために話し方にも余裕があり、講話を
聞くだけで直ちに理解できるようになっていました。毎回の授業が楽しみとなるほどでし
た。そして、必要事項はもらさず黒板書きをしておられました。ノートを見れば、それだ
けで講話の内容が再現できるようになっていました。ノートの分量は、第2学年の2〜3
倍にもなり、復習に参考書はもはや不要となりました。

 同じく第2学年に始まった物理でも、同様の経験がありました。第2学年の先生(野口
先生)は、生徒の間でも定評のあった先生で、おかげで2学年の終わり頃には、実力試験
でも満点を取得できるようになりました。第3学年に上がって交代された先生(斉藤先生)
も、丁寧に授業をなさる先生で、黒板書きについても詳細で丁寧でした。

 ところが、第3学年の2学期の中頃に、力学から電磁気学、前期量子論に内容が移行す
るときに、さらに別の先生への交代がありました。それとともに、授業の形態が大きく変
わりました。日本史の若い先生と同様に、余り整理されていない内容を、その場で考えな
がら話されるような印象で、しかも黒板書きが限られていました。磁束密度を「フラック
ス」と称して講話されるなど、やや高校離れの授業という印象もありました。授業が進む
のに伴い、級友の間から「斉藤の方が良かった」という声も聞かれるようになりました。

 後になって思うことですが、このお二人の先生の授業のあり方は、大学の講義の形態に
相似したものだったのではないでしょうか。大学では、学生は自学することが基本で、講
義はそれを助けるもの、という位置づけである、と聞いたことがあり、学生時代には、そ
のようなものだ、と理解しておりました。しかし、高校の授業は、大学の講義とは目的も
意義も、同じではないだろうと思います。また、成熟し切っていない高校生を、大学生と
同様に扱うこともできないだろうと思います。黒板書きのない講話を聞き取って、ノート
に記録することを、高校生に一律に求めることはできないだろう、と思います。

 黒板書きする先生は、講話の内容も整理されているという印象でした。黒板書きすべき
内容を、事前にきちんと整理なさっているからだろうと想像致します。生徒には、二重の
意味で理解がし易く、負担もはるかに軽くなります。科目にもよるでしょうが、黒板書き
が適した科目では、黒板書きをして下さる先生は優秀な先生ではないか、というのが生徒
の側から見た感想です。

4.行き詰まりと解決(気分転換の時間を)

 第3学年の一学期の後半、6月頃から、何とは無しに以前とは異なる妙な感覚、頭の働
きが鈍くなったような感覚を覚えるようになりました。それまで頭の中にすんなりと出て
来てくれたことが、出て来なくなったり、何か勘が鈍ったような感覚で、それまでに経験
のないものでした。一体何だろう、と思いながらも止むことがなく、夏休みを経て二学期
に入ってもなお続きました。甚だしいときには、文字を読み進めることすらできなくなり
ました。文章を読んでも内容が頭に入って来ないのです。いつまでも同じ箇所を、目が行
ったり来たりするほかなくなります。時には、体に震えが現れることもありました。

 特定の科目についてだけではなく、どの科目に向かうときにも同様の「症状」が現れて
いました。長文を読む必要のある科目である英語は、中でも深刻でした。二学期の中頃に、
老練な英語の先生(相談室担当の先生でもありました)に相談を致しました。事前に相談
したいことを伝え、時間に相談室へ行きました。相談室では、英語を毎日はやっていない
のではないか?と問われました。90分単位で平日は4単位、休日は8単位の時間枠に、
全科目を割り当てていましたので、英語が割り当てられない曜日が確かにありました。
「はい、そうです。」と答えますと、これを読みなさい、と言って薄い英語の小説を渡さ
れました。「イノックアーデン」という物語でした。実は、出版社は異なるものの、同じ
書を既に持っていたのですが、有り難うございます、と感謝の意を述べて有り難く頂戴致
しました。英語は日が空くと勘が鈍るから、毎日やるように、というお話でした。

 勘が鈍らないように、ほぼ毎日割り当てており、週のうち1日空いただけで勘が鈍るも
のだろうか、と半信半疑でしたが、毎日4単位の時間枠の他に、さらに時間を取って、プ
レゼント戴いた物語を読むことに致しました。しかし、それで「症状」が軽くなることは
なく、逆にひどくなるように感じられました。結果、数日で止めました。

 ある日の夕食後、数ヶ月ぶりにTVのドラマを視る機会がありました。入って間もない
カラーTVの画面は、以前のモノクロとは違って、実に綺麗で目が釘付けになるほどでし
た。日曜日のことで、7時から8時までの一時間に、2本のドラマが続きました。普段見
ないドラマに、知らないうちに引き込まれ、以前には無かったカラフルなコマーシャルに
も我を忘れ、次の単位が始まる8時になってようやく我に帰る、という有り体でした。

 不思議なことに、TVのある居間を離れるときに、長く続いていた重い感覚が吹っ切れ
たような気が致しました。そして机に向かって間もなく、大きな変化に気がつきました。
問題文を読んでも、すんなりと頭に入り、勘が鈍ったような感覚は消え去り、数ヶ月前の
通常の感覚が戻っていたのです。一時間のTV番組に没頭したために、起こった変化であ
ることに間違いはありません。

 その数ヶ月の間、ほとんど休む時間が無かったことに、思い当たりました。平日に4単
位(6時間)の自学の時間を確保するだけでなく、学校の休憩時間は、「数I」の自学補
習で埋められていました。学校の授業時間は6時間の他に、すでに補習授業が始まってお
りました。夏頃には自宅の引越しがあり、通学にバスを使うようになったため、通学時間
も古文や英語の作品を読むのに利用するようになっておりました。結果、一日12時間と
いう本来の計画にも拘わらず、実際上は、14時間ほどにも及ぶようになっており、気分
転換の時間が無い毎日となっていたことに、ようやく気がつきました。夏休みも、一日8
単位(12時間)という自ら決めた当初の原則から外れ、余分に時間を追加しておりまし
た。不調であるために、克服しようとして時間を増やす、という悪循環を行っていたのだ
ろうと思います。

 長い間、頭を休める時間が無くなっており、神経の疲労が重なっていたことが、不調の
原因であることを、偶然を通じて発見することとなりました。気分転換の時間が必須であ
ることを、失敗を通じて初めて認識致しました。結果、その後は、毎夜7時〜8時の1時
間、TV番組を視ることを自身に課しました。6時半から8時までの1時間半の休憩時間
に変わりはないのですが、単に休むのではなく、頭を学習外のことに振り向けて没頭する
ことが必要、と判断致しました。二学期も中頃、10〜11月頃のことでした。受験前に
行き詰まりを解消できたことは、大きな幸運だと思いました。

 受験が終わり、合格が決まった後に、家へ訪ねてきた友人が、本棚を視て、「イノック
アーデン」が2冊もあるのはなぜか、と尋ねました。苦しい経験の記念物について、くど
くどと事情を説明することは避けて、笑ってごまかしました。

5.大学受験の準備は難しくない?

 第2学年後半には、軽々と飛躍することができたものの、第3学年には半年に及ぶ不調
にも遭って、相当の消耗感もありました。第3学年の終わり頃には、もはやこのような生
活はこの年で最後にしたい、という気持ちも強くなっておりました。志望校選択の場面で、
落ちる心配の全くない安全な道を選んだ理由の一つともなりました。それでも大学受験の
準備は難しくない、と言えるのか、そもそも「最高学府」への入学を果たした訳でもない
者が、口にすべきことか..

 今になって思うことですが、第2学年の後半には、全科目共通に存在していた問題点を、
的確に把握して対処したために、全般的な飛躍を得ることができたのであって、その後に
なすべきことは、科目毎の問題を個々に把握して、対処することであったのでしょう。第
3学年に、神経疲労による永い不調の中で、実力試験の結果が僅かながらも前進していた
ことは、今となっては自分ながら驚きです。疲労により錆び付いたような感覚の頭で問題
に向かうには、相当の精神力を要しておりました。疲労による不調が無いだけでも、さら
に前進があったかもしれません。

 無意味で過剰な学習時間を無くし、さらに、科目毎に適した処方を見出して実行するこ
とで、もっと短い時間で、しかも楽に、大きな前進を得ることができたであろう、とは現
在になって思うところです。そうであれば、「大学受験の準備は難しくない」というのは
嘘ではない、と言えるだろう、と思います。また、「最高学府」に悠々と合格できるごく
少数の方々は、そもそも想定外です。多くの受験生の皆様には、今でも役立つのではない
か、という意識で、恥を忍んで古い経験を表にするものです。

 私どもの高校時代には、「反受験思想」のような風潮もありました。受験を肯定し、こ
れを目指すためにも、「思想」を要した時代でした。大学で科学・技術を修得するには、
一定の予備的な学力を要するのであって、入学試験に合格できるほどの学力は、実際上必
要なものである、という信念がありました。おかげで、外部の「雑音」に左右されずに進
むことができました。目標が「大学入学」ですので、周囲の誰かに勝ちたい、負けたくな
い、といった競争心は全くありませんでした。同じクラスの中に、試験の順位で、自分の
上に誰がいるのか、あるいはいないのか、知らないまま卒業致しました。ただ、大学合否
の指標とされる学年順位の数字のみを、毎回把握しておりました。順位発表の紙面の中に、
自分以外の名前を探したことは一度もありません。目標が明確であったための当然の帰結
であろうと思います。

 第2学年の中期以降の1年半の受験準備は、科目内容の習得だけでなく、多くの能力、
発見、経験をもたらしてくれました。入学試験を模擬した「実力養成」に、真剣に取り組
むことを通じて、論理的思考力や集中力をも高めることができました。集中力が向上した
おかげで、神経疲労が起こり易くなる、という副作用があることも、失敗を通じて発見し
ました。同時に、その解決法も偶然により見出すことができました。自学自習の習慣も身
に付けることができました。これら全てが、今なお活かされています。ある時期に、受験
の準備に取り組むことは、合格という直接の目的に止まらない、幅広い能力の開発にもつ
ながるものだ、というのが経験です。

6.「北高」のお話

 地元で「北高」と呼ばれていた私どもの高校は、自由な校風で知られていました。通学
時の制服着用は強制でしたが、頭髪、着帽、校外での服装等に、うるさくはありませんで
した。また、授業中であっても、自由に発言することが許されていました。著名な作家と
なった村上氏も、特に第2学年のときに国語の科目等で、先生を困らせるほど、再々挙手
をして意見を述べていました。第3学年の物理の時間には、私も先生の説明とは異なる解
を、黒板に書いて説明した記憶があります。先生の説明が間違っていると思われたならば、
教壇に駆け上って自説を開陳することも許されました。

 第3学年の受験の準備で忙しい中でも、物理研究サークル(F氏の提案)を作って物理
の議論をしたり、実験をしたり、大学の物理の勉強をしたりしておりました。大学の物理
については、物理の野口先生に指導を戴き、教科書として、原島鮮・著「力学」を紹介頂
きました。実験では、F氏の提案により、理科室の誘導起電器を使って、高電圧で風が起
こせないか、という実験を行っていました。夢のようなテーマで、真剣に身の入ったもの
ではありませんでしたが、貴重な息抜きの時間となりました。F氏には、有限厚さの物体
の曲げ変形の問題を、持ち掛けられたこともありました。物体を無限小厚さの層に分割す
る積分計算を考え着いて、正しい公式とは数値係数だけが1.5倍ほど異なるという、奇
妙な答えを導いたことを記憶しております。殆ど一晩徹夜の「成果」でした。どこが間違
っていたのかは、大学で材料力学を学ぶまで不明でした。

 数学の好きな級友は、「大学への数学」という月刊誌を持参して議論しておりました。
「大学への数学」に記載された複雑な確率の出題を、持ち掛けられたこともあります。ス
マートな解があったのかもしれませんが、一歩一歩計算を積み上げる地道な方法で、時間
を掛けて答えを導いたことを覚えております。カメラ部に所属する級友は、「天文ガイド」
という天文学の雑誌を紹介してくれました。村上氏には、エネルギーは物質かそうでない
か、という質問を投げ掛けられたことがあります。エネルギーは、人間の意識の外の世界
に客観的に存在するという意味では、物質であって、エネルギーという概念は、それが意
識の中に反映された観念である...今であれば科学を学んだ者として、この程度のこと
は返すことも可能でしょうが、当時はどのような回答も、持ち合わせてはおりませんでし
た。

 高校生でありながら、高校の枠を超えよう、という前向きの意欲がありました。自由な
気風があればこそ、であろうと思われます。自主学習を支えるように、図書館は放課後遅
くまで開かれており、夏休みも開いていました。対照的に、入学を果たした大学では、図
書館は夕方5時に閉鎖されました。教養部は100分、工学部は110分の4コマ授業で、自身
で勉強する時間も限られていました。大学入学後に振り返って、自主的な気風という点で、
高校の方がよほど大学らしい、と思うこともありました。自己分析を行い自身に適した学
習法を考える、ということが自然にできたのも、生徒を信頼し、生徒の自主性を許容する
気風があったからかもしれません。次元は異なりますが、村上氏が著名な作家となり得た
一助ともなっていたのかもしれません。ご本人は否定するかもしれませんが..

 北高の先生方には、教科書に沿った授業以外にも、貴重な教示や指導を戴いたことを記
憶しております。高3の秋から卒業まで、英語の先生(本田先生)には、英作文の添削を
お願いして、毎週2題ずつ添削をして頂きました。高校英語の範囲でも、相当に幅広い表
現ができるものだ、という感想を持ちました。英作文に興味を持つきっかけともなりまし
た。卒業後にお礼に行かなかったことを、永く後悔致しました。(英語には、リーダ、サ
ブリーダ、グラマー等の複数科目があって、それぞれ別の先生の担当でした)

 別の英語の先生(古賀範理先生)には、第2学年の終わり頃に、「マイティ(Mighty)」
という参考書を紹介頂きました。これは先生の母校(東京教育大学・現筑波大学)の恩師
の著ということでした。重要な熟語・構文が紹介されており、解説の後には長短の応用文
例が並んでいて、300ページほどの厚さでした。英文読解の練習にもなるため、実力試験
に見立てて、英語の「実力養成」のテキストに使用することに致しました。"so that"に
4通りの用法があること、"because"とはニュアンスの異なる"now (that)〜"(今や〜で
あるからには)、"since 〜"(〜であるからには)といった用法があることなどは、この
書で学びました。

 さらに別の英語の先生(吉岡先生;2020年8月訂正)には、「Oxford英英辞典」という、
平易な文章で書かれた英英辞典を紹介頂きました。同じく2学年の終わり頃のことです。
その後、頻繁に使用致しました。

 高1のときに、英語の文法には神経を使っておりました。中学時代には英文法の知識が
乏しく、中2のとき、先生(森田先生)から、"like"は動詞だから、この答えは間違って
いる、という指摘を受けると、"like(好きだ)"は「だ」で終わるから形容動詞でしょう?
と大まじめに答えて、唖然とさせたほどでした(註1)。このため、高1では何よりも英
文法をしっかりやろう、と決めておりました。予習では、全文を文法解釈し尽くすことを
自身に課していました。教科書の文中に、文法に合わない表現があり、これを授業の後に
質問致しました。高1も担当戴いた古賀先生は、文法とは、可能な限り合理的に説明しよ
うとして作られたもので、全てを尽くしている訳ではない、例えば"Osaka station"と言
うではないか、どちらも名詞であるのに、前の名詞は形容詞のように後の名詞を修飾して
いるではないか、という説明を戴きました。おかげで、少しばかり頭が柔軟になりました。
それにしても、東京の大学出の先生が、なぜ"Osaka"なのだろう、という疑問が頭をかす
めました。後に級友から、奥様が奈良女子大のご出身、と聞いて謎が解けた気が致しまし
た。
《註1:職員室に呼ばれたときのことで、左隣に座っておられた国語の先生(本間先生)
が、にこにこしながら、私どものやりとりを聞いておられたことを、記憶しております。
2020年8月追記》

 古賀先生からは、高2の授業の中で、大学卒業後に大学院に行って5年間修行をすれば
博士になれる、是非やるとよい、というお話も聴きました。そのような途もある、という
ことを初めて知りました。先生はその後、大学教授になっておられたことを、最近知りま
した。

 大学に進んだ年の夏休みに里帰りしていたとき、高3時代の級友達が家に訪ねてきまし
た。皆でそのまま、担任であった松尾先生の家を訪ねることにしました。松尾先生は、教
壇のときと変わらない静かな口調でしたが、以前より少し表情が固いという印象でした。
大学時代の話になり、学問はやればやるほど味が出る、というお話がありました。麻雀よ
りも玉突きの方がはるかに面白い、というお話もありました。「麻雀の比ではない」と仰
った表現が、印象に残っております。別れ際に、私に、大学は良かったか、後悔していな
いか、と問われました。「後悔していません」と答えると、ようやく安堵の混じったよう
な笑顔を向けられました。心に掛けておられたことに、初めて思い至りました。


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